9.1 身体をすべて換えても残るもの
ここまで見てきたように、 身体の多くは理論的にも技術的にも交換可能である。
運動機能。 内臓。 感覚器。
それらが置き換えられても、 人は多くの場合、自分を自分として感じ続ける。
この事実は、 「私」が身体の総和ではないことを示している。
では、何が残っているのか。
それは、 昨日の自分を覚えていること。 今日の自分が昨日から続いていると感じられること。 明日の自分を、同じ主体として想像できること。
この連続性が失われない限り、 人は直感的に 「私は私だ」と言える。
9.2 脳は「中心」だが「すべて」ではない
この連続性を直接担っているのが、脳である。 だから脳は中心に位置する。
しかし同時に、 脳がすべてではないことも、 ここまでの議論が示してきた。
脳は、 身体という環境を必要とする。 他者との関係を必要とする。 世界との相互作用を必要とする。
脳は中心だが、 孤立した中心ではない。
この点を誤ると、 「脳さえあればよい」という 極端な還元に陥る。
しかし実際には、 脳は常に 何かとの関係の中でしか 機能しない。
9.3 意識はどこに宿っているのか
意識は、 特定の部位に 固定されて存在しているわけではない。
それは、 脳の活動と、 身体の状態と、 世界との関係が 重なり合うところに立ち上がる。
だから意識は、 部品として取り出せない。 保存して移植できない。
意識とは、 状態であり、過程であり、 一人称的な出来事である。
この理解に立てば、 「私」という感覚が 完全に外部化できない理由も、 自然に理解できる。
9.4 なぜこの問いは消えないのか
技術が進めば、 多くの問題は解決される。
しかし、 この問いだけは消えない。
私とは何か。 どこまでが私で、 どこからが装備なのか。
なぜならこの問いは、 解決を目的としていないからである。
それは、 自分が主体であり続けるための 確認作業に近い。
技術が進むほど、 身体が自由になるほど、 人はこの問いを 繰り返し引き受けることになる。
次の終章では、 この問いを閉じるのではなく、 問いとして残す意味を考える。