カテゴリー: 哲学

  • あとがき


    本書は、答えを出すために書かれたものではありません。 むしろ、問いがどこまで耐えられるのかを確かめるために書かれました。

    AIとの対話という、きわめて現代的な経験から始まり、 思考の外部化、身体の代替、商品化、 そして脳という最後に残る別物へと、 議論は少しずつ領域を広げてきました。

    振り返ってみれば、 扱ってきたのは常に「限界」でした。

    どこまで外に出せるのか。 どこまで置き換えられるのか。 どこまで失っても、私でいられるのか。

    技術は、これからも確実に進歩します。 身体はさらに自由になり、 制約は減り、 多くのことが「できて当たり前」になるでしょう。

    しかし、そのとき人間が直面するのは、 新しい問題ではありません。

    むしろ、 これまで曖昧にしてきた問いが、 避けられなくなるだけです。

    ―私は、何をもって私なのか。
    ―何が失われたら、もはや引き受けられないのか。

    本書では、 脳が中心であることは否定しませんでした。 同時に、 脳だけでは人間は完結しないことも、 現実の事例を通して確認しました。

    この二つを同時に認めることは、 どちらか一方に逃げるよりも、 少し不安定で、しかし誠実です。

    問いを閉じない、という選択は、 不親切に見えるかもしれません。 しかし、問いを閉じた瞬間に、 主体は思考を止めます。

    問いが残るということは、 自分で引き受け続ける余地が残っている、 ということでもあります。

    もし本書を読み終えたあと、 どこかで違和感が残ったなら、 それは失敗ではありません。

    その違和感こそが、 この時代において 「人であること」を引き受けている証だからです。

    技術がどこまで進んでも、 問いを立てる場所は、 最後まで一人称のまま残ります。

    その場所が残っている限り、 人はまだ、人であり続けている。

    そう信じて、 ここで筆を置きます。


  • 終章 人は何を持って「人であり続ける」のか


    10.1 技術が進んでも変わらない条件

    本書では、 思考の外注から始まり、 身体の代替、商品化、 そして脳という別物へと視線を移してきた。

    その過程で見えてきたのは、 技術が進んでも、 人が人であるための条件は 思ったほど増えも減りもしない、という事実である。

    速く動けること。 よく見えること。 長く生きられること。

    それらは確かに重要だが、 人間性の中心ではない。

    中心に残るのは、 経験の連続性と、 意味を引き受ける主体であること。

    この条件が保たれている限り、 人はどれほど身体を更新しても、 自分を失わない。


    10.2 人間はどこまで装備化されるのか

    今後、身体はさらに装備化されていくだろう。 性能は上がり、 制約は減り、 個体差は縮小する。

    そのとき、 人は「人間らしさ」を 装備の中に探さなくなる。

    装備は前提になる。 人間性は、 その使い方の中に現れる。

    どの足で走るかではなく、 どこへ向かうか。 どの眼で見るかではなく、 何を見ようとするか。

    装備化は、 人間性を消すのではない。 人間性の場所を、より露出させる。


    10.3 それでも残る「私」という感覚

    ここまで削ぎ落としても、 最後に残るものがある。

    それは、 「私がここにいる」という感覚である。

    この感覚は、 証明できない。 他人に完全には共有できない。 装置に委ねることもできない。

    しかし、 この感覚があるからこそ、 人は選び、 迷い、 責任を引き受ける。

    「私」という感覚は、 機能ではなく、 結果でもなく、 立場である。

    この立場に立ち続ける限り、 人は人であり続ける。


    10.4 思考を続けるための問いとして

    本書は、 「私とは何か」という問いに 明確な答えを与えない。

    それは、この問いが 解かれるべき問題ではなく、 引き受け続けるための問いだからである。

    技術が進み、 身体が自由になり、 思考が外部化されても、 この問いだけは残る。

    むしろ、 進歩すればするほど、 この問いは より静かに、より鋭く 立ち上がってくる。

    それでよい。

    問いが残るということは、 主体が残っているということだからである。


  • 第9章 交換可能な身体と、交換できない中心


    9.1 身体をすべて換えても残るもの

    ここまで見てきたように、 身体の多くは理論的にも技術的にも交換可能である。

    運動機能。 内臓。 感覚器。

    それらが置き換えられても、 人は多くの場合、自分を自分として感じ続ける。

    この事実は、 「私」が身体の総和ではないことを示している。

    では、何が残っているのか。

    それは、 昨日の自分を覚えていること。 今日の自分が昨日から続いていると感じられること。 明日の自分を、同じ主体として想像できること。

    この連続性が失われない限り、 人は直感的に 「私は私だ」と言える。


    9.2 脳は「中心」だが「すべて」ではない

    この連続性を直接担っているのが、脳である。 だから脳は中心に位置する。

    しかし同時に、 脳がすべてではないことも、 ここまでの議論が示してきた。

    脳は、 身体という環境を必要とする。 他者との関係を必要とする。 世界との相互作用を必要とする。

    脳は中心だが、 孤立した中心ではない。

    この点を誤ると、 「脳さえあればよい」という 極端な還元に陥る。

    しかし実際には、 脳は常に 何かとの関係の中でしか 機能しない。


    9.3 意識はどこに宿っているのか

    意識は、 特定の部位に 固定されて存在しているわけではない。

    それは、 脳の活動と、 身体の状態と、 世界との関係が 重なり合うところに立ち上がる。

    だから意識は、 部品として取り出せない。 保存して移植できない。

    意識とは、 状態であり、過程であり、 一人称的な出来事である。

    この理解に立てば、 「私」という感覚が 完全に外部化できない理由も、 自然に理解できる。


    9.4 なぜこの問いは消えないのか

    技術が進めば、 多くの問題は解決される。

    しかし、 この問いだけは消えない。

    私とは何か。 どこまでが私で、 どこからが装備なのか。

    なぜならこの問いは、 解決を目的としていないからである。

    それは、 自分が主体であり続けるための 確認作業に近い。

    技術が進むほど、 身体が自由になるほど、 人はこの問いを 繰り返し引き受けることになる。

    次の終章では、 この問いを閉じるのではなく、 問いとして残す意味を考える。


  • 第8章 身体が自由になった世界で、人は何を欲するか


    8.1 若返ったと感じる身体

    身体の多くが代替され、更新され、 性能として最適化されると、 人はしばしば「若返った」と感じる。

    動ける。 見える。 疲れにくい。 痛みが少ない。

    これらは確かに、 老化がもたらしてきた制約からの解放である。

    しかしこの若返りは、 時間を巻き戻したものではない。 経験の量は減らない。 記憶は消えない。

    若返ったと感じるのは、 身体の可能性が回復したからであり、 人生がやり直せるからではない。

    このズレは、 次第に意識される。


    8.2 できることが当たり前になった社会

    すべての人が、

    • 遠くまで移動でき
    • 長く活動でき
    • 感覚の制限を受けない

    世界では、 それらは価値にならない。

    できることは、 評価の対象から外れる。

    速く走れること。 よく見えること。 強い身体を持つこと。

    それらは 「条件」になる。

    このとき社会は、 別の基準で人を見始める。


    8.3 人はできないことを過大評価する

    できることが均一になると、 人はできないことに目を向ける。

    選ばれること。 誰かに必要とされること。 他者にとって特別であること。

    これらは、 性能で埋められない。

    だから技術が進むほど、 欲望は原始的に見える方向へ集約される。

    恋愛。 性的魅力。 承認。 関係性。

    これは退化ではない。 選別不能な領域への回帰である。


    8.4 欲望はどこへ向かうのか

    身体が自由になった世界で、 欲望は消えない。

    むしろ、 焦点が鋭くなる。

    • 比較できないもの
    • 買い替えられないもの
    • 仕様に落とせないもの

    そこに、 人は意味を見出す。

    この事実は、 本書全体を貫く一つの結論を 静かに支えている。

    身体がどれほど変わっても、 技術がどれほど進んでも、 人間は意味を求める。

    そしてその意味は、 最後まで 「脳」と「関係」のあいだに残る。

    次の章では、 ここまでの議論をまとめ、 交換可能な身体と、交換できない中心 を明確にする。


  • 第7章 極限としての「脳だけの存在」


    7.1 身体をほぼすべて機械に委ねた一人の科学者

    理論上の思考実験ではなく、 現実に「脳だけに近づく」という試みを行った人物がいる。 ピーター・スコット=モーガン である。

    彼は進行性の神経疾患によって、 運動、発話、嚥下、呼吸といった身体機能を次々に失っていった。 通常であれば、ここで人は「生の質」を失うと考えられる。

    しかし彼は別の選択をした。 身体機能を可能な限り機械に委ね、 意識と知性を保ったまま生き続けるという選択である。

    発声は失われ、 代わりに合成音声が用いられた。 呼吸と消化は機械管理となり、 身体は次第に「生命維持環境」へと変わっていった。

    この試みの重要性は、 勇気や悲劇性にあるのではない。

    彼自身が科学者であり、 自らの身体を使って 「どこまでが人間か」を検証した という点にある。


    彼の状態は、 理論的に想定されてきた 「脳だけの存在」に、 現実として最も近づいた例である。

    にもかかわらず、 彼は明確に「生きていた」。

    思考は保たれ、 判断は行われ、 意思は言語として外部に表出された。

    この事実は、 一つの重要な点を示している。

    脳は、極端に限定された環境でも、 主体として機能しうる。

    しかし同時に、 もう一つの事実も明らかにした。

    それは、 この状態が 「理想形」ではない、ということである。


    彼の身体は、 もはや自己表現の場ではなかった。 それは、 脳を存続させるための 装置的環境であった。

    ここで、 本書の議論が決定的に具体化される。

    • 脳は中心である
    • しかし、脳だけでは人間は完結しない

    彼の試みは、 この二つを同時に肯定した。

    脳は残せる。 だが、 世界との関係は著しく細くなる。

    この細さは、 技術的問題ではない。 意味の問題である。


    重要なのは、 彼がこの限界を 知らずに踏み込んだのではない、 という点だ。

    彼は理解していた。 脳だけに近づくことが、 何を得て、何を失うのかを。

    だからこそこの事例は、 称賛でも、 単なる悲劇でもない。

    それは、

    理論が、 現実の一人の人間の上で どこまで耐えられたかを示した 境界線

    である。

    この境界線の存在によって、 「脳だけでよい」という 単純な還元は成立しないことが、 冷静に、しかし決定的に示された。


    7.2 成功と限界が同時に示されたという事実

    この試みが示した最大の成果は、 「脳は極限まで守ることができる」という点にある。

    思考は維持された。 判断能力も保持された。 意思は、音声合成という形で外部化され、 世界とつながり続けた。

    ここまでは、 技術と医学の明確な成功である。

    しかし同時に、 この成功は 限界を内包した成功でもあった。

    それは、 技術的に「できる」ことと、 人間として「成立する」ことが、 一致しない場合があるという事実である。

    脳は機能していた。 だが、 脳が関与できる世界は、 極端に狭まっていた。

    成功と限界は、 別々に現れたのではない。 同じ条件から、同時に現れた。


    7.3 精神的葛藤はどこにあったのか

    この極限状態における最大の困難は、 痛みや恐怖ではない。

    それは、 「意味の置き場」である。

    身体が動かず、 自分から世界に働きかけられない状態では、 世界は「起こるもの」になる。

    触れられない。 近づけない。 拒否できない。

    ここで生じるのは、 感情の消失ではない。 むしろ逆で、 感情は過剰に内向きになる。

    思考は鋭く、 内省は深まる。 しかし、 それを外へ放出する経路が限られる。

    このとき人は、 自分が「主体」であることを 理屈ではなく、 体験として問い直すことになる。

    葛藤は、 生きるか死ぬかではない。

    この形で、生き続ける意味は どこにあるのか

    という問いである。


    7.4 自分なら耐えられるのか、という問い

    ここで、第7章は 読者自身へと向きを変える。

    もし自分が、 同じ条件に置かれたらどうするか。

    思考は保たれる。 知性も失われない。 しかし、 身体はほぼ完全に 環境へと変わる。

    それでも生きたいか。 それとも、 どこかで区切りをつけたいか。

    この問いに、 正解はない。

    しかし重要なのは、 多くの人が直感的に感じる 一つの違和感である。

    それは、

    • 脳は確かに中心である
    • しかし、脳だけでは十分ではない

    という感覚である。

    この感覚は、 本書全体の議論を 静かに裏づけている。

    脳は特別である。 だが、 脳だけを残すことが 人間の完成形ではない。

    この事例は、 そのことを 誰よりも厳密に示した。


  • 第6章 なぜ脳だけは別物なのか


    6.1 ソフトとハードが分離できない臓器

    脳が特別に扱われる理由は、 感情的な神秘性ではない。 構造的な違いである。

    多くの機械は、 ハードウェアとソフトウェアを分離できる。 同じプログラムを、 別の筐体で動かすことができる。

    しかし脳では、 この分離が成立しない。

    記憶は、 どこかに保存されたデータではない。 それはシナプスの結合として、 物質そのものに刻み込まれている。

    学習とは、 ソフトの更新ではなく、 ハードの再配線である。

    このため、 脳を「入れ替える」「コピーする」という発想は、 原理的な困難を抱える。

    脳は、 情報処理装置であると同時に、 履歴そのものだからである。


    6.2 記憶・人格・履歴が焼き付いた物質

    脳の中には、 「空白の部分」はほとんど存在しない。

    どの回路も、 過去の経験によって形作られ、 使われ方の癖を持っている。

    この癖こそが、 人格であり、 判断の傾向であり、 世界の見え方である。

    ここで重要なのは、 これらが 後から貼り付けられた属性ではない、 という点だ。

    記憶や人格は、 脳に「乗っている」のではない。 脳として存在している。

    だから脳を交換すれば、 経験の連続性は断たれる。 どれほど高性能な代替物であっても、 それは別の存在になる。

    この一点で、 脳は他の臓器と明確に区別される。


    6.3 脳だけでは生きられないという現実

    一方で、 脳が中心だからといって、 脳だけで成立するわけではない。

    脳は、 極端に代謝要求の高い臓器である。

    酸素と糖が わずかに途絶えただけで、 機能は急速に失われる。

    したがって脳は、 循環、呼吸、恒常性維持という 環境を必要とする。

    ここで重要な区別が現れる。

    • 身体は「私」ではない
    • しかし身体は「私の前提条件」である

    脳は主体だが、 主体単独では存在できない。

    この現実は、 「脳だけがあればよい」という 単純な還元を拒む。


    6.4 脳を生かすために最低限必要なもの

    では、 脳を生かすために 最低限必要なものは何か。

    それは、 人の形をした身体である必要はない。

    必要なのは、

    • 安定した循環
    • ガス交換
    • 栄養供給
    • 老廃物の除去
    • 温度と電解質の制御

    つまり、 生理的条件である。

    ここまで削ぎ落とすと、 身体はもはや 「私」ではなく、 脳を成立させる環境になる。

    この視点に立つと、 人間の最小構成が見えてくる。

    それは 「脳+それを生かす条件」 であり、 それ以上の部分は、 交換可能な実装である。

    しかし同時に、 この極限モデルは、 人に一つの問いを突きつける。

    それでも、 人は脳だけの存在として 生きたいと思うのか。

    次の章では、 この問いに最も近づいた 極限の実例を取り上げる。


  • 第5章 生体の更新と「私」の連続性


    5.1 iPS細胞が変えた生命観

    再生医療、とりわけ iPS 細胞の登場は、 単なる医療技術の進歩ではなかった。 それは、生命に対する前提そのものを書き換えた。

    それまでの生命観では、 分化した細胞は基本的に元に戻らない、 身体は不可逆に老いていく、 という暗黙の了解があった。

    iPS 細胞はそれを否定した。 細胞の運命は固定されておらず、 情報によって再び書き換えられる。

    この発見が示したのは、 身体が「一度きりの素材」ではなく、 更新可能なプロセスであるという事実である。

    ここで重要なのは、 再生された組織が 「別物」ではないという点だ。

    遺伝的にも、免疫学的にも、 それは自己であり、 外部から持ち込まれた機械とは性質が違う。


    5.2 生体の再生成は、なぜ機械とは違うのか

    人工関節や義肢は、 機能を代替する装置である。 それに対して、 再生された生体組織は、 身体の内部から連続している

    ここに、 機械的代替との決定的な違いがある。

    機械は、 取り付けられた瞬間から 「外部のもの」として存在する。 一方、生体は、 時間をかけて 身体の一部として溶け込む。

    この違いは、 「私」という感覚にも影響する。

    機械は装備であり、 生体は更新である。

    この区別がある限り、 身体が変わっても、 「私が変わった」という感覚は生じにくい。


    5.3 すべてを換えても「私」と言える理由

    仮に、 脳以外の臓器が 少しずつ、あるいは一気に すべて置き換えられたとしよう。

    それでも多くの場合、 本人はこう感じる。

    「私は私のままだ」と。

    この直感は、 感情ではなく、構造に基づいている。

    私たちが 「私」と呼んでいるものは、 部品の同一性ではない。

    昨日の経験を覚えていること。 過去の自分を自分として引き受けていること。 未来の自分を、自分として想像できること。

    つまり、 経験の時間的連続性である。

    身体がどれほど変わっても、 この連続性が断たれない限り、 同一性は保たれる。


    5.4 経験の連続性という唯一の条件

    ここまで来ると、 「私とは何か」という問いは、 かなり絞り込まれてくる。

    私とは、 特定の物質でも、 特定の形でもない。

    それは、 途切れず更新され続ける 一人称の経験の流れである。

    だから、

    • 身体が若返っても
    • 臓器が変わっても
    • 感覚器が装備になっても

    経験が連続している限り、 「私」は失われない。

    逆に、 身体がまったく変わらなくても、 経験の連続性が断たれたとき、 人は直感的に 「同じ人ではない」と感じる。

    この事実は、 次の章への重要な伏線になる。

    なぜなら、 脳だけは、 この連続性を直接担っている からである。


  • 第4章 代替された身体は、モノになる


    4.1 交換可能になった瞬間、価値は変わる

    あるものが交換可能になるとき、 その価値は静かに、しかし決定的に変化する。

    交換できないものは、 それが失われるまで価値が意識されない。 しかし交換できるものは、 性能・価格・耐久性で比較され始める。

    身体も同じである。

    一度でも 「この部位は取り替えられる」 と理解された瞬間、 それは不可侵の存在ではなくなる。

    大切にされなくなるわけではない。 むしろ管理され、最適化される。

    しかしその扱いは、 敬意ではなく、 仕様の問題へと近づいていく。


    4.2 ベンツの足、ツァイスの目という世界

    身体が交換可能になる社会では、 会話の言葉遣いが変わる。

    速く走れる足。 長時間疲れない関節。 暗所でもよく見える眼。

    それらは、 「私の身体」ではなく、 「選んだ装備」として語られる。

    どのメーカーの足か。 どの世代の眼か。 アップデートはいつか。

    ここでは、 身体はもはや運命ではない。 選択の結果である。

    そして選択の世界では、 必ず比較が生まれる。


    4.3 性能・価格・ブランドで語られる身体

    比較が始まると、 価値の言語は急速に単純化する。

    性能。 価格。 信頼性。 ブランド。

    それは家電や車と同じである。

    一時的には、 高性能な装備は優越感を与える。 しかしそれは長く続かない。

    次の世代が出る。 より安価な代替品が現れる。 誰もが同じ水準に追いつく。

    すると身体は、 誇る対象ではなく、 前提条件になる。

    この段階で、 身体は完全に「モノ」になる。


    4.4 身体が商品になる社会で起きること

    身体が商品になると、 人は身体に意味を見出さなくなる。

    速く走れること。 よく見えること。 強く、壊れにくいこと。

    それらは 「できて当たり前」になる。

    すると、人の関心は別の場所へ移る。

    比較できないもの。 仕様に落とせないもの。 買い替えられないもの。

    身体が商品化された社会では、 身体以外の領域に価値が集中する

    この変化は、 人間が冷たくなったことを意味しない。

    むしろ、 どこに人間性が残っているのかを はっきりと浮かび上がらせる。

    次の章では、 この流れの中で、 生体の更新―とくに再生医療が どのように位置づけられるのかを考える。

    身体がモノになる一方で、 「私」が失われない理由が、 そこに現れる。


  • 第3章 感覚器は装備になり、世界は残る


    3.1 眼と耳は、すでにカメラとマイクである

    眼と耳は、感覚の中でも特異な位置にある。 それらは早い段階から、機械との対応関係が明確だった。

    光を受け取り、信号に変換する。 音の振動を捉え、情報に変える。

    この機能だけを見れば、 眼はカメラであり、 耳はマイクである。

    実際、写真や映像、録音は、 人間の視覚や聴覚を補うだけでなく、 ときにそれを超える。

    遠くのものを見る。 一瞬を切り取る。 人間には聞こえない音域を捉える。

    この段階で、 感覚器はすでに「道具」として外在化されている。

    それでもなお、 私たちは「見ている」「聞いている」と感じる。

    この違和感が、 次の問いを生む。


    3.2 感覚器と感覚野の決定的な違い

    眼や耳が代替できるとしても、 それだけでは感覚は成立しない。

    重要なのは、 感覚器と感覚野は同じではない という点である。

    感覚器は入力装置である。 感覚野は、入力を世界として構成する場所である。

    同じ映像を見ても、 人によって「見え方」は違う。 同じ音を聞いても、 意味の取り方は異なる。

    これは感覚器の性能差ではない。 脳内に蓄積された履歴の違いである。

    感覚野は、 過去の経験によって常に書き換えられ、 世界の見え方そのものを形成している。

    だから感覚器は交換できても、 感覚そのものは交換できない。


    3.3 見ているのは目か、脳か

    「見ているのは目か、脳か」という問いは、 直感的には単純に見える。

    答えは、 目ではない。 しかし、脳だけでもない。

    見ているのは、 脳が、目を通して世界と関わっている過程 そのものである。

    もし目が完全に機械に置き換えられても、 その信号が適切に脳へ届けられ、 既存の感覚野と連続して処理されるなら、 世界は「見え続ける」。

    逆に、 感覚野が損なわれれば、 目があっても世界は成立しない。

    ここに、 感覚の本質がある。

    感覚とは、 装置ではなく、 関係である。


    3.4 「感じる」という体験はどこで生まれるのか

    感じるという体験は、 感覚器の性能から直接は生まれない。

    それは、

    • これまで何を見てきたか
    • 何を重要と学習してきたか
    • 何に注意を向けるか

    といった、 時間的に積み重なった選別の結果である。

    この選別は、 機械的にコピーできない。

    だから感覚器が装備になっても、 世界は均一にはならない。

    むしろ逆に、 入力が高度になるほど、 人ごとの差は拡大する

    ここで、 身体の代替は次の段階へ進む。

    身体はモノになる。 感覚器も装備になる。

    しかし、 世界の意味づけは残る。

    この意味づけを担っているものが何か― それが、次の章で扱う **「身体の商品化」**の問題と 深く関わってくる。


  • 第2章 身体はどこから代替可能になるのか


    2.1 運動機能はなぜ最初に置き換えられるのか

    身体の中で、最も早く代替の対象になったのは運動機能である。 これは偶然ではない。

    運動は、目的が明確で、結果が測定可能で、 力学モデルに落とし込みやすい。 曲げる、伸ばす、支える、移動する。 そこに含まれる意味は少なく、 求められるのは再現性と耐久性である。

    そのため、 関節、筋、骨の役割は比較的早く機械化された。 人工関節、義手、義足は、 「動く」という目的において、 生体との差を急速に縮めていった。

    ここで重要なのは、 運動機能が人格や価値判断と 直接結びついていないという点である。

    手が強くなっても、 足が速くなっても、 その人が何を望み、何を選ぶかは変わらない。

    だから運動機能は、 人間の中心から最も遠い位置にある身体機能 として、最初に置き換えられた。


    2.2 人工関節・義肢が示した「単純な機能」

    人工関節や義肢の発展は、 身体のどの部分が「単純な機能」と見なされるかを はっきりと示した。

    単純というのは、 価値が低いという意味ではない。 理論的に分解できるという意味である。

    関節は、 角度、負荷、摩耗という変数で記述できる。 義肢は、 入力と出力の対応関係として設計できる。

    そこに記憶はない。 履歴はあっても、意味はない。 だから交換が可能になる。

    この事実は、 身体に対する意識を静かに変えていく。

    一度でも人工関節を入れた人は、 「身体は不可侵のものではない」 という感覚を、 理屈ではなく体験として理解する。

    ここから、 身体は少しずつ 「与えられたもの」ではなく 「管理される構造物」へと移行していく。


    2.3 内臓はなぜ難しいが、理論的には可能なのか

    運動機能の次に問題となるのは内臓である。 内臓は、運動よりはるかに複雑である。

    そこには、

    • 化学反応
    • 流体制御
    • 電解質バランス
    • ホルモン調節

    といった、 複数の制御系が重なっている。

    そのため代替は難しい。 しかし、難しいだけで、 原理的に不可能ではない。

    人工心臓、人工腎臓、人工膵臓。 これらはすでに部分的に実現しており、 問題は理論よりも、 長期安定性と統合制御にある。

    内臓もまた、 人格や価値判断を担ってはいない。 その役割は、 生命を維持するための環境調整である。

    したがって内臓は、 高度に複雑だが、意味を持たない機能 として、いずれ代替の対象になる。


    2.4 身体が「構造物」になるという感覚

    運動機能、内臓機能が 理論上は代替可能だと理解されたとき、 身体の捉え方は根本的に変わる。

    身体は、 「私そのもの」ではなく、 「私を支える構造」になる。

    それは冷たい感覚ではない。 むしろ実務的で、落ち着いた感覚である。

    家の柱を補強するように、 部品を交換し、 性能を保つ。

    この段階で、 身体は少しずつ モノとして扱われ始める

    しかし、 すべてが同じように扱えるわけではない。

    次の章で扱う感覚器は、 この流れの中で 独特の位置を占める。

    眼や耳は、 代替できるようでいて、 どこかで線が引かれる。

    その線は、 身体と世界の境界に関わっている。