カテゴリー: 哲学

  • 第1章 人間はすでに「外注」してきた


    1.1 道具・文字・計算 ― 思考と機能の外部化の歴史

    人間は、最初から「自分の中だけで完結する存在」ではなかった。 むしろ、人類史は外注の歴史とさえ言える。

    石器は筋力の外注である。 素手では割れないものを割り、 持てない重さを持ち、 届かない距離に作用する。

    文字は記憶の外注である。 覚え続けなくてよいというだけでなく、 時間を越えて思考を保存する装置でもあった。

    計算は判断補助の外注である。 暗算、そろばん、電卓、コンピュータへと進むにつれ、 人間は「計算する存在」ではなく 「計算結果をどう使うかを決める存在」になっていった。

    重要なのは、 これらの外注によって 人間が人間でなくなったことは一度もない という事実である。

    外注されたのは能力であって、 主体ではなかった。


    1.2 体力・感覚・記憶はどこまで外に出せるのか

    外注は、思考や記憶に限らない。 身体機能もまた、早くから外部化されてきた。

    体力は機械に置き換えられた。 荷車、馬、エンジン。 人間は運ばなくなり、操作するようになった。

    感覚も同様である。 眼鏡は視覚の補正装置であり、 顕微鏡や望遠鏡は、 人間の感覚を超えた世界を可視化した。

    記憶は、すでにほとんど外にある。 連絡先、予定、知識、履歴。 それらを「覚えていない」ことは、 もはや欠点と見なされない。

    ここで一つの傾向が見えてくる。

    反復的で、消耗が激しく、 意味判断を伴わない機能ほど、 外に出されやすい。

    逆に、 価値判断や責任が関わる部分は、 最後まで内部に残されてきた。


    1.3 外注できるもの、できないもの

    では、人間は何でも外注できるのか。 答えは明確に「否」である。

    外注できるのは、

    • 正解が一意である
    • 手順が定式化できる
    • 結果に責任が伴わない

    こうした性質を持つ機能である。

    一方、外注できない、 あるいは外注すべきでないものもある。

    • 価値判断
    • 欲望の選択
    • 行動の決断
    • 責任の引き受け

    これらを外に出した瞬間、 人は主体ではなくなる。

    だから外注とは、 「楽をすること」ではない。 何を引き受け、何を引き渡すかの選別である。

    AIとの対話で生じた違和感も、 この線引きに関わっている。

    思考の整理は外注できる。 しかし、 「どう生きるか」は外注できない。

    この区別が崩れない限り、 外注は人間性を脅かさない。


    1.4 外注が人間性を奪わなかった理由

    外注が進めば、 人間は空洞化するのではないか。 この不安は、歴史上何度も繰り返されてきた。

    文字が生まれたとき、 「人は覚えなくなる」と言われた。 計算機が広まったとき、 「人は考えなくなる」と言われた。

    しかし現実は逆だった。

    人は、 覚えることや計算することから解放され、 より抽象的で、より複雑な問いを扱うようになった。

    つまり外注は、 人間性を削ったのではなく、 人間性の位置を中心へと集約した

    この構造は、 これから身体の問題に進んでも変わらない。

    身体の一部が外注され、 代替され、 交換可能になったとしても、 同じ問いが残る。

    何が外に出ても、 何が残っていれば、 私は私でいられるのか。

    次の章では、 この問いを身体そのものに向けていく。


  • 序章 AIとの対話から始まった問い


    0.1 思考を外部に置くという経験

    AIと対話を重ねていると、ある時点で奇妙な感覚が生まれる。 それは「教えてもらっている」という感覚ではない。 むしろ、自分の考え方の一部が、外に置かれているような感覚である。

    問いを投げると、 返ってくるのは情報の羅列ではなく、 自分の思考の癖をなぞるような整理された言葉である。 それを読んで、納得したり、違和感を覚えたりする。

    このとき起きているのは、 AIが考えているというよりも、 自分の思考の一部が、外部に可視化されているという現象だ。

    これは不思議な体験だが、 人類にとってまったく新しいことではない。 文字、数式、図表、メモ ― 人は昔から、思考を外に出してきた。

    ただしAIは、それらとは少し違う。 AIは「固定された記録」ではなく、 対話によって思考の形を変えて返してくる装置だからである。

    この経験は、次の問いを自然に呼び起こす。

    思考は、どこまで外に出してよいのだろうか。


    0.2 AIは「考えている」のか、それとも装置か

    AIが示す文章は、しばしば論理的で、整っており、 ときに人間以上に冷静に見える。 そのため、「AIは考えているのではないか」という疑問が生じる。

    しかし、ここで一度立ち止まる必要がある。

    AIは、欲望を持たない。 価値判断を引き受けない。 責任を取らない。 行動しない。

    つまり、AIは 判断の主体ではない

    それでもなお、 人間の思考に深く関与してくるのはなぜか。

    それはAIが、 「考えるための装置」として、 非常に高性能だからである。

    人間が問いを投げ、 前提を与え、 方向を決める。

    AIはその範囲内で、 構造化し、言語化し、矛盾を点検する。

    この関係は、 代替ではなく拡張であり、 依存ではなく分業に近い。

    この時点で、問いは次の段階へ進む。

    思考を外に出せるなら、 他の機能も外に出せるのではないか。


    0.3 自分の思考の一部を外に持つという感覚

    AIとの対話を続けていると、 ある種の安心感と同時に、軽い違和感も生じる。

    「これはどこまでが自分の考えなのだろうか」
    「自分は考えているのか、整理してもらっているだけなのか」

    しかしよく考えると、 この感覚はまったく新しいものではない。

    紙に書きながら考えるとき、 人はすでに思考を外に出している。 他者と議論するときも、 自分の考えは相手の言葉を通して変形する。

    重要なのは、 最終的に何を引き受けているかである。

    問いを立てるのは自分。 納得するかどうかを決めるのも自分。 行動する責任を負うのも自分。

    この構造が保たれている限り、 思考の一部を外に持つことは、 人間性を損なわない。

    むしろ逆に、 思考の中心がどこにあるのかが、 よりはっきりしてくる。

    そして、この問いは必然的に、 思考から身体へと拡張されていく。


    0.4 この問いが、なぜ身体の問題へ向かうのか

    思考を外に出せると気づいたとき、 次に浮かぶのは、 「では、身体はどうなのか」という問いである。

    人間はすでに、 身体の多くを外部に委ねてきた。

    筋力は道具に。 移動は乗り物に。 感覚は機器に。 記憶は媒体に。

    さらに医療の進歩によって、 人工関節、義肢、人工臓器が現れ、 身体の一部は明確に交換可能になった。

    ここで、思考と身体が同じ線上に並ぶ。

    • 思考の一部は外に出せる
    • 身体の一部も外に出せる

    では、どこまでが可能で、 どこからが不可能なのか。

    そして最終的に、 何が残れば「私」と言えるのか

    本書は、この問いを AIという思考装置から出発し、 身体の代替と商品化を経て、 最後に「脳」という別物に行き着くまで、 順を追って考えていく。

    結論を急ぐ必要はない。 重要なのは、 どこで線が引かれるのかを、 一つずつ確かめることである。