序章 AIとの対話から始まった問い


0.1 思考を外部に置くという経験

AIと対話を重ねていると、ある時点で奇妙な感覚が生まれる。 それは「教えてもらっている」という感覚ではない。 むしろ、自分の考え方の一部が、外に置かれているような感覚である。

問いを投げると、 返ってくるのは情報の羅列ではなく、 自分の思考の癖をなぞるような整理された言葉である。 それを読んで、納得したり、違和感を覚えたりする。

このとき起きているのは、 AIが考えているというよりも、 自分の思考の一部が、外部に可視化されているという現象だ。

これは不思議な体験だが、 人類にとってまったく新しいことではない。 文字、数式、図表、メモ ― 人は昔から、思考を外に出してきた。

ただしAIは、それらとは少し違う。 AIは「固定された記録」ではなく、 対話によって思考の形を変えて返してくる装置だからである。

この経験は、次の問いを自然に呼び起こす。

思考は、どこまで外に出してよいのだろうか。


0.2 AIは「考えている」のか、それとも装置か

AIが示す文章は、しばしば論理的で、整っており、 ときに人間以上に冷静に見える。 そのため、「AIは考えているのではないか」という疑問が生じる。

しかし、ここで一度立ち止まる必要がある。

AIは、欲望を持たない。 価値判断を引き受けない。 責任を取らない。 行動しない。

つまり、AIは 判断の主体ではない

それでもなお、 人間の思考に深く関与してくるのはなぜか。

それはAIが、 「考えるための装置」として、 非常に高性能だからである。

人間が問いを投げ、 前提を与え、 方向を決める。

AIはその範囲内で、 構造化し、言語化し、矛盾を点検する。

この関係は、 代替ではなく拡張であり、 依存ではなく分業に近い。

この時点で、問いは次の段階へ進む。

思考を外に出せるなら、 他の機能も外に出せるのではないか。


0.3 自分の思考の一部を外に持つという感覚

AIとの対話を続けていると、 ある種の安心感と同時に、軽い違和感も生じる。

「これはどこまでが自分の考えなのだろうか」
「自分は考えているのか、整理してもらっているだけなのか」

しかしよく考えると、 この感覚はまったく新しいものではない。

紙に書きながら考えるとき、 人はすでに思考を外に出している。 他者と議論するときも、 自分の考えは相手の言葉を通して変形する。

重要なのは、 最終的に何を引き受けているかである。

問いを立てるのは自分。 納得するかどうかを決めるのも自分。 行動する責任を負うのも自分。

この構造が保たれている限り、 思考の一部を外に持つことは、 人間性を損なわない。

むしろ逆に、 思考の中心がどこにあるのかが、 よりはっきりしてくる。

そして、この問いは必然的に、 思考から身体へと拡張されていく。


0.4 この問いが、なぜ身体の問題へ向かうのか

思考を外に出せると気づいたとき、 次に浮かぶのは、 「では、身体はどうなのか」という問いである。

人間はすでに、 身体の多くを外部に委ねてきた。

筋力は道具に。 移動は乗り物に。 感覚は機器に。 記憶は媒体に。

さらに医療の進歩によって、 人工関節、義肢、人工臓器が現れ、 身体の一部は明確に交換可能になった。

ここで、思考と身体が同じ線上に並ぶ。

  • 思考の一部は外に出せる
  • 身体の一部も外に出せる

では、どこまでが可能で、 どこからが不可能なのか。

そして最終的に、 何が残れば「私」と言えるのか

本書は、この問いを AIという思考装置から出発し、 身体の代替と商品化を経て、 最後に「脳」という別物に行き着くまで、 順を追って考えていく。

結論を急ぐ必要はない。 重要なのは、 どこで線が引かれるのかを、 一つずつ確かめることである。