3.1 眼と耳は、すでにカメラとマイクである
眼と耳は、感覚の中でも特異な位置にある。 それらは早い段階から、機械との対応関係が明確だった。
光を受け取り、信号に変換する。 音の振動を捉え、情報に変える。
この機能だけを見れば、 眼はカメラであり、 耳はマイクである。
実際、写真や映像、録音は、 人間の視覚や聴覚を補うだけでなく、 ときにそれを超える。
遠くのものを見る。 一瞬を切り取る。 人間には聞こえない音域を捉える。
この段階で、 感覚器はすでに「道具」として外在化されている。
それでもなお、 私たちは「見ている」「聞いている」と感じる。
この違和感が、 次の問いを生む。
3.2 感覚器と感覚野の決定的な違い
眼や耳が代替できるとしても、 それだけでは感覚は成立しない。
重要なのは、 感覚器と感覚野は同じではない という点である。
感覚器は入力装置である。 感覚野は、入力を世界として構成する場所である。
同じ映像を見ても、 人によって「見え方」は違う。 同じ音を聞いても、 意味の取り方は異なる。
これは感覚器の性能差ではない。 脳内に蓄積された履歴の違いである。
感覚野は、 過去の経験によって常に書き換えられ、 世界の見え方そのものを形成している。
だから感覚器は交換できても、 感覚そのものは交換できない。
3.3 見ているのは目か、脳か
「見ているのは目か、脳か」という問いは、 直感的には単純に見える。
答えは、 目ではない。 しかし、脳だけでもない。
見ているのは、 脳が、目を通して世界と関わっている過程 そのものである。
もし目が完全に機械に置き換えられても、 その信号が適切に脳へ届けられ、 既存の感覚野と連続して処理されるなら、 世界は「見え続ける」。
逆に、 感覚野が損なわれれば、 目があっても世界は成立しない。
ここに、 感覚の本質がある。
感覚とは、 装置ではなく、 関係である。
3.4 「感じる」という体験はどこで生まれるのか
感じるという体験は、 感覚器の性能から直接は生まれない。
それは、
- これまで何を見てきたか
- 何を重要と学習してきたか
- 何に注意を向けるか
といった、 時間的に積み重なった選別の結果である。
この選別は、 機械的にコピーできない。
だから感覚器が装備になっても、 世界は均一にはならない。
むしろ逆に、 入力が高度になるほど、 人ごとの差は拡大する。
ここで、 身体の代替は次の段階へ進む。
身体はモノになる。 感覚器も装備になる。
しかし、 世界の意味づけは残る。
この意味づけを担っているものが何か― それが、次の章で扱う **「身体の商品化」**の問題と 深く関わってくる。